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勉強の楽しさ

勉強の楽しさ

だんだんと秋らしくなってきました。

暑かった頃と比べて、気持ちがだんだんと落ち着いてきたように感じます。子どもたちもそうではないでしょうか。

読書の秋に勉強の秋(と、言ったかどうか?)。子どもたちにはここぞとばかり、勉強をがんばってもらいたいものです。そしてできるなら、勉強の楽しさを知ってもらいたいと思います。勉強の楽しさを知るには、まずはこちらから心を開いて相手に(この場合は英語や数学に)近づいていく必要があると思います。

何かのため、例えば進学や資格のため、でももちろん構いません。しかし勉強の楽しさというものは、本当はそういうこととは関係がないもののように思えます。

私個人のことで恐縮ですが、私にはかなり以前から個人的に続けていることがあります。学生時代に社会思想史とか哲学と呼ばれる分野を少しばかりかじったのですが、今でもその頃の興味は続いていて、我ながら言うのも恥ずかしいですが、ほとんど興味は衰えていません。そして実に細々とではありますが、今でも勉強を続けています。

塾の仕事を終えて帰宅し(仕事柄ほぼ深夜になります)、遅い食事をした後眠りに就くまでの少しばかりの時間、古典と呼ばれる類のものを少しずつ、本当に恥ずかしくなるくらい少しずつ、読んでいます。

勉強というほどのことでもないかもしれません。机に向かう気力も湧かないくらい疲れて寝床に滑り込み、目で活字を追うでもなく追っているうちに、1ページも進まないうちにいつの間にか眠ってしまうこともよくあるという、その程度のことですし、その程度のことすら最近はサボりがちだったりで、本当はまったく偉そうに言うほどのことではありません。

でも、この何の役にも立たないような、我ながら物好きな、趣味とも言えないような趣味に、浸るでもなく浸っている少しばかりの時間が、私にとっては何ものにも代えがたい、それこそ「羽根が生えた」と形容したくなるような楽しい、自由な時間なのです。

勉強と言えば英語や数学のスキルを身につけるための退屈な作業ぐらいにしかほとんどの子どもは考えていないでしょうし、実際ほとんどの子どもはそういう勉強しかしたことがないだろうと思います。

これは私たち大人の社会の責任です。一国の教育というものは、その国や社会の教育以外の他のいろいろな部分と切り離しては考えられないものです。例えば今の日本の子どもたちを、以前の日本経済がもっと元気だった頃のやり方で教育しようとしても、なかなかうまくはいかないだろうと思います。今の子どもたちに表れている問題の1つとして、勉強しようという気持ち、モチベーションの弱さが挙げられると思います。私たちの社会はそれに対して、有効な解決策を見出せずにいます。

私個人の話に戻りますが、私が勉強の楽しさを知ったのは大学に入ってからでした。それまで勉強や読書と言えば、要領よくポイントをつかんであとはそれを運用するためのスキルを磨くだけだと考えていた私は、大学のとあるゼミで出合った勉強の仕方に、それこそ天地がひっくり返るほどの驚きを覚えました。それは要領よく・・・というのとは完全に正反対のやり方で、一句ごとに立ち止まっては考え・・・というふうに本を読んでいくものでした。

大学ではそういう本の読み方を強いられたので、慣れないうちは正直たいへん苦痛でした。でもこのやり方に慣れた後は、もうこれ以外のやり方で本を読みたいとは思わなくなりました。本当に優れた本からは、読み飛ばせばわずかのものしか得られないが、じっくりと、何度も行きつ戻りつして、ああでもないこうでもないと考えながら、それこそ本と対話するようにして読むことで、信じられないくらい多くのものが得られると気づいたからです。その時から、読書は私にとってただ必要な情報を得たり一時の楽しみを得るだけのものではない、深い喜びをもたらしてくれるものになったように思います。

さてしかし、こういった類のことと子どもたちの勉強にどんなつながりがあるのか、正直まだ私にはよく分かりません。

一昔前までなら、将来の楽しみのため、たとえ今は退屈で面白くなくても、子どもは我慢して勉強しなければならないというような言い草も通用したかもしれませんが(子どもは勉強するのが仕事!)、今の子どもにそれは通用しないでしょう。この私だって、子どもの頃本気でそういうことを信じていたかと言えば、はなはだ疑わしいと言わざるを得ません。

子どもの頃の私は、勉強しなくてもよいのだと思ったことはなかったと思いますが、それでも、退屈でつらい勉強をどうすれば少しでも楽しいものにできるか、悪戦苦闘していたことが思い出されます。

学校で習う数学や理科といえども、そこには人類が数百年・数千年かかって多くの犠牲と引き換えに手にしてきた知識や知恵がふんだんに詰まっているわけで、本当は面白くないはずはないと思います。それを退屈な、面白くないものにしているのは、勉強は何かのため、進学や資格のためにするものという、私たちの中の頑固な固定観念なのかもしれません。

 

水橋校 涌井 秀人