教室ニュース 水橋校ニュース子どもの個性と勉強

子どもの個性と勉強

子どもの個性と勉強
この冬は何度も大雪に見舞われ、校舎前駐車場などの雪かきに精を出すことも、例年になく多かったように思います。でもこのところは少しずつ、春を予感させるような陽気の日も増えてきました。そういう日は、何だか訳もなく心が浮き立ちます。
この通信が皆さんのお手元に届く頃は、県立高校一般入試が終わっています。その頃受験生とその親御さんは、間もなく分かる結果を、期待と不安が入り混じった気持ちで待っています。
ここまで精一杯がんばってきた子どもたちが皆、合格発表のその日に、合格の二文字を強く脳裏に焼きつけることができるようにと、心から願っています。でも、たとえ結果がどうあろうとも、子どもたちがここまで粘り強く真剣にがんばってきたその経験は、彼らの未来にとってかけがえのない宝となるはずだと信じています。それでもやはり、子どもたちには1人残らず、今は合格の二文字に酔い痴れてほしい、と強くそう思います。皆本当に、こちらの頭が下がるほどがんばっていました。
ところで、受験勉強ということからは少しずれますが、子どもたちはなぜ勉強しなければならないかと問う時、その答えを暗示してくれているように思える言葉があります。エッカーマンの『ゲーテとの対話』という本の中に、文豪ゲーテが語ったものとして、このような言葉が記されています。
「わかりきったことだが」とゲーテはつづけた、「人間のもっているさまざまの力を同時に育てることは、望ましいことであり、世にもすばらしいことだ。しかし人間は、生れつきそうはできていないのであって、実は1人ひとりが自分を特殊な存在につくりあげなければならないのだ。しかし、一方また、みんなが一緒になれば何ができるかという概念をも得るように努力しなければならない。」(『ゲーテとの対話』岩波文庫から)
ここで言われていることの1つは、人間は誰でも万能の存在にはなれないのであって、何か1つのことに絞って、自分の限りある能力の開花と育成に力を集中するべきだということです。言うなれば個性を持てということです。
私たちは人の個性というものを、どうもかなりの部分生まれつきのものだと考えたり、そうでなくても何か自然の成り行きで出来上がっていくもののように考えがちだと思います。そういうふうに考えがちなのは、あるいは日本社会独特の精神風土のなせることなのかもしれません。ただゲーテのこの言葉は、そういうことは言っていません。人の個性とは人為的に作り上げるべきもので、しかも自分で作り上げるべきものだと言っています。
こういう考え方を、いかにも西欧的なもので、日本社会の実情には合わないと言って拒むことは、私たちにはできないと、いや許されないとさえ思っています。ここではこういう話を長々とするわけにはいきませんから、私の考えの要点だけを言わせていただきたいと思いますが、日本社会は明治維新このかた、ずっと西欧近代をお手本に作り上げられてきたのであり、学校教育もまた、骨の髄まで、西欧近代の教育理念をお手本に作り上げられてきたのに他ならない以上、今さら後戻りはできず、その発展の行きつく所まで行く他ないということです。
個性の開花と育成、それも他人の指導のもとでではなく自分自身で育成するということが、西欧近代の教育理念の中心にある考え方で、ゲーテという名前はその代名詞ともなってきたものです(教師は指導者ではないという考えは、社会学者のマックス・ヴェーバーなどにも見られます)。
さて個性の開花・育成と言っても、今の子どもたちほどそうしたことからかけ離れたものはないのではないかと思われる今日この頃です。言うまでもないことですが、個性を発見し育てていくためには、勉強をしなければなりません。勉強をして、何が先人によって作り上げられてきたのか、そして何がこの世界には存在するのかを知って、そこから初めて自分の居場所を見つけることができるというものです。ひと頃「自分探し」というのが流行りましたが、実社会でのいろいろな経験も、自室に戻っての勉強があればこそ、初めて活きてくるのであって、そういうフィードバック作用のないところに何も有益なものは生まれないと思います。子どもたちは基本的に素直ですから、やれと言ったことはちゃんとやります。でもそこから先の勉強がないし、そもそも勉強にそれほどの意味があるなどとは想像もできないのです。これは誰の責任かと言えば、文部科学省のお役人や政治家だけのせいでもないし、まして学校の先生だけのせいでもない。他でもない私たち大人皆の責任です。
図らずも愚痴めいた話になってしまいましたが、子どもたちの勉強について考える時、そして子どもたちをいかに勉強に向かわせるかについて少しでも真剣に考えようとすれば、避けて通るわけにはいかないことだと思います。
県立高校一般入試を前に、連日中3生が自習にやって来て、軽く5時間6時間勉強して帰ります。机にかじりついて勉強に没頭している姿を見ながら、この子たちにとって勉強というものが単なる受験勉強以上の意味をもつことはあるのだろうか、この子たちは勉強そのものの楽しみを少しでも知ることはできたのだろうかと、時に自問します。ほんの一瞬でも、そういうことが起きるなら、私にとってそれ以上の喜びはありません。そういう一瞬を子どもたちのために準備してやることが、私がこの仕事を通じて追求している究極目標だと、そう言っていいように思えます。
水橋校 涌井 秀人