中3受験特訓講座が始まりました。
11月です。
今月から、中3生対象の受験特訓講座が始まりました。
これから来年3月(12、13日)の県立高校一般入試直前までの毎土曜日の午後に、1回3時間の特訓授業を実施していきます(冬期講習中は1回4時間)。普段の授業に加えての特訓です。生徒たちには、これからいっそうのがんばりを期待します。県立一般入試まで4か月ほど。いよいよ受験勉強に命を燃やすときです。悔いが残らないように過ごしてもらいたい。私たち水橋校のスタッフも、がんばる生徒たちのよき伴走者となれるよう、心して臨みたいと思っています。
もう何年も繰り返し見てきたことですが、中3生たちは、この4か月ほどの間に、驚くばかりの精神的成長を遂げます。
これからの時期、彼らは、人生始まって以来の一大試練を経験します。そこで彼らは、ありとあらゆる感情を経験することになります。高校受験は生徒本人の望むと望まざるとにかかわらず、彼ら全員に私たち大人の社会が課すものです。子どもたちはそれを、大人が一方的に押しつける大人の都合そのものと思うかもしれませんし、受験とは、少なくとも高校受験とは確かにそういう性格のものだと、私も思います。そういう、そもそもの前提そのものが、自立の途上でとかく大人の世界のあれこれに敏感に反応することの多い微妙な年頃の子どもたちには大いに疑わしく感じられる上に、頻繁にある学校のテストや塾に強いられる模試やその類いのテストで、ほとんど息つく暇もなく結果を出すことを求められ続けて、健康な神経の持ち主なら不満や怒りを爆発させてもおかしくない状況だと思います。
私たち大人だって、今でこそ子どもたちの背中を押して受験に挑戦させようと躍起になっていますが、かつては同じような疑問を抱え、親や学校の先生に対しはっきりとした言葉にならない不満を持ちながら、悶々とした日々を過ごしたはずです。子どもたちにひたすら「よい結果」のみを求めて、子どもたちが厳しい状況で日々悪戦苦闘していることを顧みることもしないというのは、大人の態度として、いかがなものだろうと思います。我が子の成績に目をつり上げる前に、かつての自分のありようを思い出してみるべきかもしれません。
さてしかし、そうは言っても、中3生の子どもたちはこれから結果を出していかなければなりません。望むと望まざるとにかかわらず、高校入試を突破できるだけの学力をつけていかなければなりません。中学校までの勉強と高校へ行ってからの勉強との間には、量もさることながら質においても、かなり根本的と言ってよいような違いがあります。学校の25メートルプールを十分に守られた環境の中で泳ぐのと、足もつかないし波もある大海原で泳ぐのと、決して大げさではなく、それぐらいの違いがあります。断絶と言ったほうがいいかもしれません。ショッキングなほどです。高校へ行ってからのそういう経験に耐えられるだけの力を、中学生のうちから養っておく必要があります。
人にはいろいろと向き不向きがあり、どうしても数学が好きになれないとか、がんばってもなかなか結果が出ないということはあります。でも、高校受験という試練において重要なことは、誰もが5教科のバランスのとれた高い学力を身につけることではなく、多少の困難で挫けてしまうことのない心の力を養うことだろうと思います。
いったん苦手意識が染みついてしまうと、よい結果を出すのは至難の業です。しかし大人の世界で生きていくとは、日々そういうことと格闘し続けていくのに等しいことでしょう。そのとき支えとなるのは、少しばかり頭がいいとか、要領がいいとかいうことではないと思います。そんなことよりも、苦手でがんばってもがんばってもなかなか結果が出ない物事を、それでも静かにがんばってやり続ける粘り強さのほうが、どれだけ重要か分かりません。たいていの物事は、結果の出ない苦しいがんばりをたっぷり経た後でなければ、成功などおぼつかないものです。
結果は大事です。志望校に合格することは大事です。しかし結果オーライという言葉がありますが、そんな発想では、大人の世界でまっとうに生きていくことはできないと思います。結果というものは、本人と周りのがんばりだけで決まるものではないように思います。ある意味バクチめいたところがあって、人智の及ばないところで決まるものかもしれません。成功を信じることは大事だと思いますが、何が何でも…と思うのはどうかと思います。
誤解しないで欲しいのですが、私は、人間には、そういうことよりもっと大切なことがあるだろうと言いたいのです。高校受験を終えた子どもたちの姿から毎回のように私が感じるのも、結果だけでは語り尽くせない人としての地力のようなものです。それに比べれば結果などはおまけのようなものです。
水橋校 涌井 秀人