よりよい学びとは
この3月から、水橋校では新しく、レプトン子ども英語教室が始まりました。教室でこれまでやってきた、学校の授業が分かるためのお手伝いとか、志望校に合格するためのお手伝いといった、いわゆる塾らしいこととはだいぶ違った趣のものです。習い事に近い感覚のものと言ってよいと思います。初めて子どもたちを迎えてレッスンを始めた当初から、このことが私にはとても印象的な形で訴えてきました。
なんと言っても、教室にやって来る子どもたちの表情が違います。純粋に楽しそうですし、新しいことを学ぶ喜びや意欲がストレートに伝わってきます。悔しいことですが、教室にやって来る子どもたちの中で、本当に心から楽しそうな表情をして教室に入ってくる子はあまりいません。少なからぬ子の表情から、私の気のせいかもしれませんが、時に何かを我慢しているといった気分や、親に言われて渋々、特にやりたくもない勉強をしに来たといったような気分が垣間見られることがあります。これは私にとっては正直なところ、何か自分が人として間違ったことをしているのではないかという不安で悲しい気持ちにさせられるひとコマです。レプトンの子どもたちの表情にそういうネガティヴな気分が当初からまったくなかったことに、まず驚きました。とても新鮮な体験でした。
習い事というものは、学校で習う内容と直につながっているものではありません。それは基本的には、学校のテストとか受験の成否といった生臭い現実はひとまず措いたところで行われます。取り組みの姿勢はかなり自由で自発的なものです。したいからするというものです。親御さんもそうですし、子どもたちもそうですし、お世話する側の人間もそうです。ひとまずは現実のプレッシャーがないからこそ、学ぶことがたいそう楽しいことになっています。私は自分のこれまでの仕事を根本的に疑うほどのショックを感じました。それまで塾で英語を学んでいる子どもの口から、英単語を発音する生き生きとした元気な大きな声を聞いたことがありませんでした。レプトンの子どもたちはそれをいとも簡単にやってのけます。それも驚くほどの素晴らしい発音です(小さな子どもの耳と頭の素直さには脱帽してしまいます)。
何やらレプトンの宣伝をしているようですが、私はこれまで日々子どもたちの学習に関わってきた中で、いかに子どもたちのやる気を高めるか、モチベーションを高めるか、ということに本当に頭を悩ませてきましたし、今も五里霧中です。塾での学習というものには、ある種独特の緊張感が、それを和らげようとどんなに努めても、どうしてもまとわりつきます。お世話する側からすればそれは当然、できるだけ早く目に見える成果を出さなければならないという強いプレッシャーから来るものです。成果を出さなければ収入の途を閉ざされてしまいますから、それはもうどうしたって必死になります。他方で親御さんについて申し上げればその緊張感は、さしずめ、毎月高い月謝他を払っているのだからそれなりの目に見える成果が出なければ許せない、あり得ないという強迫観念?から来るものでしょう(失礼かもしれませんが)。そして子どもたちはと言えば、親からも塾の先生からも目に見える成果を強く期待される、あるいは強要されるという二重のプレッシャーから逃れることができません。三者三様のプレッシャーが渦巻く塾の教室は、油断しているとどんどん雰囲気がぎすぎすしたものになっていってしまいます。そうなってしまったらもう、誰にとってもよいことなど何一つなくなってしまいます。
人は成果を強要されているところでは、持てる力のほんのわずかさえも発揮できないものなんだということは、私たち大人が何度も何度もそこに立ち返って肝に銘じなければならないことだと私は思います。親御さん方にもそのことはぜひとも肝に銘じていただきたいし、肝に銘じていただく他はないと思います。そんな弱いことでは・・などと思ってみても何も始まりません。現実をしっかりと見る必要があります。お金を払えばなんとかなるというものではありません。ただし、私はと言えば、こういうことはまだまったくと言ってよいほどできていませんし、ですから本当はここでこういうことを語る資格もないのかもしれません。
かつてテレビで紹介されていたような、子どもたちが皆はちまきを締め血走った目で一斉に黒板に向かい、唾を飛ばしながら熱っぽく語る講師の言葉や身振りに集中したり、皆一斉に机にかじりつき我を忘れて演習課題に取り組むといった塾の姿は、はっきり言ってもはや過去のものだと思います。小学生ですらスマホを手にするような時代にそういうかつての熱っぽい教室風景はもはや二度と蘇ることはないでしょう。たとえどんなに素晴らしいカリスマ講師が教えるのだとしても。もしもかつての子どもたちのモチベーションが今より高かったとすれば、それは社会全体のあり方が今とはだいぶ違うものだったからです。情報社会の爛熟した今日にあって、かつてと同じ場面で子どもたちのモチベーションが高まることはもうありません。私自身スマホやパソコンのない生活はもはやほとんど考えられませんし、我が身を振り返って強く思います。
今の子どもたちのモチベーションはどこを見ても危機的な状態ですが、そういう中でなんとか突破口を見つける努力を私たち大人は続けていかなければなりません。子どもにとって(子どもだけではないかもしれませんが)、勉強には生きる力を育てるという決してゆるがせにはできない大きな意味があります。確かに、大半の中学生にとって因数分解の仕方を身につけたりイオンについて理解することに、将来生きていく上で直接役に立つという意味での意味は、まったくないと言ってよいでしょう。でもだからと言ってそれらを学ぶことが無意味かと言えばまったくそうではなく、新しいことを学べるようになるための受け入れ装置を頭の中に作ったり、物事をいろいろな観点から多角的に考えられるようにするための訓練をすることは、困難な面白くないことが圧倒的に多い現実世界でできるだけ気持ちよく生きていけるようにするためには、絶対に必要なことです。イオンについて理解できることが、ただ高校入試で問われるからというレベルをはるかに超えて、実は人としての死活問題と関係していたりするのです。
テストの点数とか受験の成否だとかをとりあえずは心配せずに新しいことを学べることほど幸せな学びはないと思います。そういう時にこそ人は見えない心の翼を思いきり広げるようにして、知の世界へと飛翔することができます。レプトンのお世話をすることから私はそのことを改めて教わっています。その試みを私は大事にしていきたいと思っています。小さな子どもたちから学べることが山のようにあります。
でもそうは言っても、我が子のテストの結果はやっぱり気になるし、受験は必ずや成功させたいし、甘いことばかりは言ってられない・・。そう、確かにその通りです。もっともなことです。ですがその気持ちの奥には、我が子の将来への思いやりだけではなく、およそ人というものがどのようにして育っていくのか、どのようにして一端の人間になっていくのかについての無知や想像力の欠如といった決して無視できない問題がないかどうか、いたずらに我が子を追い立てるだけでかえって我が子のやる気を削いでしまってはいないか、厳しい目で自問してみていただきたいと思います。ぜひとも考えてみていただきたいと思います。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)