過去と未来
新学期が始まり、中学生や高校生にはまた、中間テストに期末テスト、受験生ならそれらに加えて実力テストに模試等々、勉強の結果を求められる日々がやって来ました。
子どもたちの中には、どうせ自分には勉強する能力がない、がんばっても無駄だと、いくらかあきらめの境地で新学期を迎えている子もいるかもしれません。
人というものは過去に縛られがちです。学校の授業について行けなかったとか、がんばった割にテストで結果が出なかったとか、あるいはそんなこんなで周りの大人から叱責されたとか、いくつも小さな失敗を重ねているうちに、自分には能力がないのだろうとだんだん思えてくるとしても、無理はないだろうと思います。私にも、子どもの頃か大人になってからかを問わず、そういうふうに思った経験がたくさんあります。現に、今だってそうです。
でもどうして、人というものは、面白くない過去の思い出にばかり縛られてしまうのでしょう。中にはそうではない人もいるかもしれませんが。
過去というものは私たち1人1人の心の中にしかないものです。しかもそれは、もとあった実際の姿そのままで保存されているとはまったく限りません。少なくとも常識的にはそう言えるでしょう。言ってみれば私たちは、過去そのものではなく、過去の亡霊のようなものに強く影響されて、ともすればその延長線上でしか未来を思い描くことができないのです。これはとても多くの人が思い当たることだと思います。
これまでがんばったけど芽が出なかったから、今度も、その次も、やっぱり同じように悪いだろうと内心思ってしまうのは、こういう理由からなのかもしれません。過去の延長線上でしか未来を思い描けないという私たちの習性は、あまりに強力なものなので、普段は意識されることもあまりないのだと思います。
しかし過去の延長線上でしか未来を思い描けないというのは、言葉を換えて言うなら、自分の心の中にしかない過去の亡霊のようなものに従った形でしか、自分の未来を作っていくことができないということになろうかと思います。目の前で実際に起きていることを見ないで、自分ひとりの心の中のあいまいな記憶にだけ寄りかかって、自分はこうなる以外にないと勝手に決めてかかり、実際に自分で何となくその通りにしてしまうという悪循環が、ここには見受けられます。
よくイメージされるように、未来というものが、過去からまっすぐ続く一本の線の延長上にしかなく、人は誰でも逃れることのできない「運命」を生きていくことしかできないなら、人はいつしか人生に対してどうしようもない倦怠感しか感じられなくなるのではないでしょうか。勉強で結果を出すことを「あきらめ」かけているように見える子には、そういう倦怠感が共通して見てとれます。
これまで必ずと言っていいほど起きたことが、これから先も変わらず起きると、決めつけていい理由がどこかにあるでしょうか。そんな理由はどこにもないと、私は固く信じています、というか固く信じたいと思います。
未来とは本来無限の可能性を秘めたもので、人生が何かある大きな力のしからしむるところによって、決まった方向へ向かって進んでいるように見えるとしても、それは、かなりの部分自ら選んでそうなるようにしているという事実を意識していないために、ただそう見えるだけなのではないかと思います。
私は自分自身の人生についても、教室にやって来てくれる子どもたちの人生についても、何かを決めつけるようなことは極力避けたいと思っています。未来がどうなるか分からないと思うことは、私にとっては、希望という小さな灯りを心の中に灯すのに等しいことです。それは、今より少しでもよくなることは可能かもしれないという、小さいけれど決して無力ではない何ものかです。未来がどうなるか分からないということで不安になるのは仕方のないことで、これこそ誰もが本来避けることのできないことだと思います。でも希望は、この不安を補って余りあるほどの力(生きる力と言っていいと思います)を与えてくれるように思います。
全知全能の人などいません。未来がどうなるか分かる人などいません。勉強をがんばっても結果は永遠に出ないなどと決めつけることのできる人はいないのです。
つい後ろ向きになりがちな気持ちを未知の未来に向かって開いていくのは簡単なことではないと思います。希望とは熟練を要する手仕事のようなものだと言った思想家もいます。私だって、つい挫けそうになる気持ちをその都度何とか立て直しながら、今より少しはよくなるかもしれないと信じて、日々を過ごしています。
よくなるための可能性の芽は、日常生活のいたるところにあるはずです。子どもたちにも親御さんにも、そういうものに敏感であってほしいと願います。私自身そうであろうとの自戒を込めて。
水橋校 涌井 秀人