教室長のきまぐれ日記ー勉強の楽しさ?ー
前回の通信では勉強の楽しさということについて触れました。その終わりのほうで私は、勉強の楽しさを知るには、まずこちらのほうから心を開いて、変な先入観を持たずに、英語や数学という相手に近づいていく必要がある、ということを書きました。相手が心を開いてくれるのを待つのではなく、むしろこちらのほうがまず心を開く。そうすれば相手は、いろいろな秘密を教えてくれる、と。
しかしそうは言っても、心を開くというのは言うは易しですが、いざ実践するとなるとなかなかに難しいことです。どうすれば心を開くことができるのか?
心を開くというのは、つまりはあるがままの物事に素直に向き合うことだと思います。人間は思い込みをしやすいものです。私が言うまでもないことです。人と人との関係でも、いさかいのもととなるのは、たいていはお互いに対する思い込みではないかと思います。英語や数学に対する苦手意識も、多くはその教科に対する思い込みから来ているのではないかと思います。
英語や数学に人間のような心があるわけではないので、この場合思い込みをするのはもっぱら人間のほう、ということになります。誰でも何か自分にとって新しいことを学び始めたばかりの時というのは、期待と好奇心で多少とも胸がわくわくするものでしょうが、それが次第に幻滅に変わっていくのは、目の前で分からないことが積もり積もっていくように見える時ではないでしょうか。英語や数学が人間を見捨てるわけはないのですが、そんな時はまるで自分が英語や数学に見捨てられたように思えるかもしれません。
何かが分からない、ということをどう考えたらよいのでしょう。分からないのは自分の頭が悪いからでしょうか。ある教科が嫌いになる子の中には、どうせ自分は頭が悪いから‥というあきらめムードに陥る子が少なからずいます。しかしそういう子でも自分のことを嫌いになるわけにはいかず、結果としてその教科に対して、自分の中のネガティヴな気持ちを投影することになりがちなように思います。そうやって自分でも知らず知らずその教科の面白くないところを数え上げるようになる。そしてついにはその教科を嫌うようになる。その教科を教えている教師を嫌うようになることも、同様にあります。
しかし何かが分からないのは自分の頭が悪いからだと考えるのは、早計というものではないでしょうか。例えば英語は、日本で生まれ育った私たちが慣れ親しんでいる日本語とはまったく何のつながりもなく非常に長きにわたって使われ、次第にできあがってきた言葉なのですから、私たちにとってどこまで行っても分からないものなのは当然のことです。数学だって、人類が何千年にもわたってたいへん多くの犠牲と引き替えに手に入れてきた知恵の集積なのですから、そうそう簡単に分かることばかりでないのは当然なのです。
ちょっとやそっとで分かる相手ではないと悟るところから、本当の意味での「分かる」ということが始まるということは、古今東西の偉大な先人たちがずっと言い続けてきたことでもあります。ちょっと努力してみたくらいで分からないからといって諦めてしまうのは、ようやく本当の意味でのスタート地点に立ったか立たないかというところで、もと来た道を引き返すようなものです。これはあまりにも惜しいことだと思います。
では、何とかスタート地点に踏みとどまったとして、そこから先はいったいどうすればよいのか?
こうだと信じて従ってきたやり方がここまで通用しなかったのなら、あるいは、あるところまでは通用したがあるところからは通用しなくなったのなら、ここから先はもうこれまでのやり方に従い続けるわけにはいきません。ではどうすればよいか? もはや答えを自分の中に探し求めるわけにはいきません。答えは相手の中、もう分からなくなってしまった相手の中に探し求めるしかありません。探し求めると言いましたが、ひょっとしたら、そういう積極的な意志すら消えた時に初めて、ようやく相手は自ずから秘密を語り出してくれるものなのかもしれません。
「待つことだけが人生」と言った外国の作家がいましたが、その言葉の重みを身にしみて感じる今日この頃です。
水橋校 涌井 秀人