教室ニュース 水橋校ニュース教室長のきまぐれ日記ー平凡さについてー

教室長のきまぐれ日記ー平凡さについてー

教室長のきまぐれ日記ー平凡さについてー
平凡さということについて、少し考えてみたいと思います。
子どもの進路や将来を親が考える時、我が子の内に眠る非凡な才能というものへの期待に導かれて考えることがあるかもしれません。多くの親がそうかどうかは分かりませんが、我が子が人並み外れた、とまではいかなくとも、何か優れた能力を発揮して、社会の中で高く評価されるのを夢見るということがあるかもしれません。
こういうことは、(偏見かもしれませんが、)ひょっとすると、すでに当の親自身が非凡な才能を発揮する生き方をしている場合に、より多く見られることかもしれません。例えば親が大学の教員か何かで、その道の権威として尊敬されているような場合に、そういう親が、我が子には早くから一流の教育を受けさせて、(そして一流の学校に進ませて、)我が子の内に眠る非凡な才能を伸ばしてやらねば、ということを当然のことと考える、というようなことは、ありそうに思えます。
しかし、ちょっと考えてみればすぐ分かることですが、非凡な才能というものは誰もが恵まれているわけではありません。例えば理数系の学問に秀でた親を持ったからといって、子どもも同じように理数系の学科に秀でることができるかどうかは、まったくもって未知数と言わざるを得ません。親が医師だと我が子にも医師をやらせたがる例が少なくないように思いますが、私は昔からそのてのことは不思議でなりませんでした。
あるいはまた、何かは分からないが、とにかく我が子の内に眠っているはずの何らかの才能を目覚めさせたいと期待して、子どもが小さいうちから、数多くの習い事に取り組ませてみるということもあるかもしれません。
親が我が子の将来に期待を抱くのは当然のことでしょうし、昔のように、子どもの多い家族で、まずは家族が何とか食べていけるための働き手であることが子どもに求められているのではない以上、親が我が子の将来についていろいろと夢を描いたりするのも当然のことでしょう。
選択肢は無限と言っていいほどあります。しかし、およそ星の数ほどもある選択肢の中から、我が子に合ったものを確実に見つけてやれる親はいないだろうと思います。そうしたものを見つけてやるためには、星の数ほどもあるいろいろな経験を、実際に子どもにさせてやる必要があるかもしれませんが、まず普通の親にそんなことができる余裕はありません。それにそもそも、仮にそういう経験を子どもにさせてやることができたとしても、親だけでなく子ども自身もまた、そこから最適なものを見つけ出せる保証はないでしょう。選択肢が多くなれば、選び出す苦労がそれだけ大きくなるのが道理です。選択肢が無限に多くなれば、選び出す苦労は無限に大きくなります。そうなってしまっては、人は普通何も選べなくなってしまいます。
現代は若者が生きにくい時代だと言われます。ニートという言葉があえて使われなくなるほど、若者が定職を持たないことが当たり前の世の中になってきています。若者の生きにくさの背景には、選択肢が星の数ほどもある一方で、その中から自分に合ったものを選び出し、他の誰のものでもない個性的な人生を生きるべしという、無言の圧力のようなものが、この社会にあるせいではないだろうかと、ふと思ったりもします。言い換えれば、非凡な人生とはきわめて得がたいものであるのに、一方で、平凡な人生を生きることを不当に軽視するようなところが、この社会にあるせいではないだろうかと思うのです。
非凡な才能というものは誰もが恵まれているわけではありませんし、仮に才能があったとしても、それを発見できて育てていけるチャンスは、天文学的な確率のものです。そういうチャンスに巡り合うことができるなら、それは幸運なことではあるでしょうが、そういうことは人智の及ぶところではないようにも思います。
そういうチャンスばかりを求めていては、いつまで経っても、現実に根を下ろした人生を生きることはできなくなってしまいます。人はパンのためにのみ生くるにあらずと言います。確かにそう思います。しかしだからといって人は、霞を食べて生きていくわけにもいきません。
親が愛する我が子に伝えるべき第一は、平凡な人生を生きることの大事さをおいて他にないと思います。そして平凡な人生をちゃんと生ききることの、なんと難しいことか。このことを子どもにちゃんと伝えることこそ、あらゆるしつけの基本であり、またあらゆる教育の基本だと私は思います。非凡さや個性といったものを崇拝するところからは、本当の非凡さや個性は生まれてこないと思います。
水橋校 涌井 秀人