教室ニュース 水橋校ニュース教室長のきまぐれ日記ー勉強嫌いにも意味がある!ー

教室長のきまぐれ日記ー勉強嫌いにも意味がある!ー

教室長のきまぐれ日記ー勉強嫌いにも意味がある!ー
勉強ができるようになるためには、何かを理解する力(理解力)を身につける必要があります。そして何かを理解できるというのは、つまりは、頭の中で情報の整理整頓ができるということです。けれども整理整頓も、あまり度が過ぎるのは問題かもしれません。
何かを理解しようとすれば、どうしてもその何かを自分の頭のサイズ(?)に合わせて整理整頓しなければならなくなります。それはつまり、その「何か」を強引に自分サイドに引き寄せて、そしてその「何か」を自分サイズに切り縮めることです。結局のところ、理解という営みには物事に対する暴力という側面もあります。
子どもは普通自分の周りの世界に対して、私たち大人と違って、あまり囚われない姿勢、つまり物事を基本的に不思議なものとして受け止める姿勢を持っているものだと思います。そういう子どもにとっては、何かを理解するというのは世界の不思議さを手放すことに他なりません。それは奥深い底知れぬ魅力を持った豊かな物事を、平板で退屈で無味乾燥なものに無理やり変えてしまうことです。小さい子どもの目には普通きらきらした輝きがありますが、そういう輝きを、成長した後もずっと持ち続けていられる子はまずいません。
小さい子が描く絵はどれも例外なく楽しく面白いものです。しかし子どもが成長して絵の上手な大人に手ほどきを受けるようになると、これもほとんど例外なく、その絵は型にはまったような、実に退屈なものになってしまいます。子どもが勉強することによって身につける知識をめぐる事情も、これとよく似ています。子どもは勉強しなければなりませんが、しかし勉強することによって、子どもらしい豊かな感性はどんどん失われていきます。
テストでよい点数を取るためとか、よい学校(?)に進むためというのは、勉強のごく表面的な目的でしかありません。本当は、子どもが勉強するのは(子どもが勉強しなければならないのは)、自分が生きているこの世界を正しく理解するためであり、正しく理解することで、この世界の中でちゃんと自分の足で立って、出来る限り自由に生きていけるようにするためです。(このことをちゃんと分かっている大人は、残念ながら多くはない気がします。)
そういう勉強は、毎度毎度のテストの結果に一喜一憂したり、受験勉強で苦労したりすることをはるかに超えたもので、それ自体が奥深い底知れぬ魅力を持つ営みです。しかしそれでも、勉強し何かを理解するということは、あるがままの自然な物事を自分の(人間の?)都合のいいように変えてしまうことに他なりません。学問には憂鬱な面がつきまとうと言った哲学者もいました。
勉強嫌いな子どももいますし、訳知り顔の偉そうな大人の指導は頑として受け付けない子どももいます。しかし私は、子どもとは本来そういうものではないかと思います。子どもにとっては、自分には見えている豊かなもの(それは名づけようもないもの、と言ってよいかもしれません)が大人には見えていないということが、まず大人に対して不信感を持つ原因になるでしょうし、自分もまたそういう大人になっていかなければならないという運命が、ひどく腹立たしく思えてくるのではないでしょうか。こうしたことはすべて、私には当たり前の自然なことのように思えます。
私たち大人は、子どもが勉強を嫌ったり、テストでひどい点数をもらってきたりすると、つい上からの目線で子どもを何とかしよう、子どもに言うことを聞かせようとしがちです。けれども、そうしながらも心のどこかで、子どもに共感しているということはないでしょうか。我が子の勉強嫌いに困り果てながらも、自分の子ども時代を密かに我が子に重ね合わせて、当時の納得できなかった気持ちを思い出していたりしないでしょうか。我が子の点数にカッカきていながらも、心のどこかでは、テストの点数ごときでいちいち心を動かしていることの虚しさを感じていたりはしないでしょうか。
そういう矛盾した気持ちには、子どもと大人の間のコミュニケーションを考える上で見過ごすことのできない大切なものが潜んでいるように思えます。大人は子どもにおもねってはいけませんが、だからといって子どもを大人の言う通りにさせなければならないわけでもありません。言う通りにさせなければまともに育たない、というわけではありません。むしろ反対に、子どもの持つ囚われのない姿勢に私たち大人が学ぶべきところもあるだろうと思います。
あまり整理整頓ばかりを子どもに強制するのは問題かもしれません。それは子どもらしさという失われやすい宝物を傷つけることにもなるのだということを、私たち大人は肝に銘じておいたほうがよいと思います。
アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人