教室長のきまぐれ日記ー年の初めにー
新しい年です。私にとってはもう何十回目の新年になるのか‥それなりに歳は取りましたが、幾つになっても新しい年を迎えるのはいいものです。最近は新年を迎える頃になると必ず思うことがあります。これまで長い間生きてきて、ふと気がつくと今ここにいる。これまでの人生において実現できたこと、また実現できなかったことの数々。ここから先、自分は何をなすべきなのか? まだ若かった頃は自分の未来などまったく想像もできず、毎日毎日がいろいろなプレッシャーの連続だったのを覚えています。10代から20代にかけての不安と何の根拠もない期待感が入り混じっていたあの日々と比べれば、今などは、ある意味でずっと安寧で落ち着いた日々かもしれません。もちろん大人になった今は、子どもの頃には直接経験することのなかった厳しい生存競争の大海原で、人並みに日々もがいています。しかしそのプレッシャーや緊張感も、子どもの頃に感じていたプレッシャーや緊張感と比べるなら、それほどでもないように感じます。
たぶんそれは、すでに渦中に飛び込んでしまっている、ということと関係があるのだろうと思います。大人の世界にはいろいろと、楽しいことばかりでなく面白くないことや耐えがたいことがあり、むしろそうしたことばかりと言ってもいいくらいであるのは言うまでもありませんが、当の大人はその渦中でひたすらもがき続けるしかないので、今現にしている自分の経験についてあれこれ思い悩んだりする余裕も暇もない、というのが大方の事実だろうと思います(その代わり自分の身体に思い悩んでもらっている、ということになるのでしょう)。
子どもは違います(たぶん)。厳しい生存競争の波に呑み込まれるのをまだ免除されている(?)10代の子どもたちは、やがて間もなく間違いなくやって来る情け容赦のない現実を前にして、ただもうひたすらいろいろ予感したり、想像したりするしかありません。受験というのは1つの試練ですが、それは子どもたちに、大人になれば必ず経験することになる生存競争の何たるかを前もって経験させる、そしてあらかじめ免疫力をつけさせておく、という意味があるのかもしれません。受験という試練は確かに、子どもたちを、私たち大人が子どもっぽいと見なしがちな類いの不安や悩みから解放してくれるようなところがあります。受験勉強にのめり込んでいる子どもたちからいわゆる子どもらしさを感じることはあまりありません。真剣に勉強に取り組んでいる子どもの目には、ほとんど迷いがありません。
こうしたことはよいことなのかどうか、そうそう単純には分からないことであるように私には思えます。というのも、受験勉強にのめり込んでいる子どもには、言ってみれば、物事を打算抜きで本当に冷静に考えたり、物事の善し悪しについてとらわれることなく判断する余裕や暇がないからです。受験を制するには知識を詰め込まなければなりませんが、ただ知識を詰め込むだけでは人間性が育たないことも確かでしょう。留意しておかなければならない点です。
こうしたことはまた、ただ発達途上の子どもたちだけに当てはまることではないように思います。子どもと違って日々現実の生存競争にもまれている大人にも、同じように物事を本当に冷静に考えたり物事の善し悪しをとらわれずに判断する余裕はないわけですから。私たちが生きているこの非常に発達した資本主義の世界では、優秀な人や有能な人にお目にかかることはいくらでもあっても、人間性に優れた人にお目にかかることは少ないように思います。同じように人に対する評価も、優秀さや有能さに向かうことはあっても、人間性や人柄に向かうことは少ないように思います。これは悲しむべきことでしょう。競争に打ち勝つことだけが価値のあることではありません。
私たちは競争から逃れることはできないでしょうし、競争から多くの価値あるものを得ているのも事実です。しかし人間に関する諸事すべてを競争に還元してしまうのは人間というものをあまりにも狭く捉えすぎであり、とても危険なことでもあります。子どもたちにしても、成績のよい子は評価されても、成績の振るわない子、また勉強が好きではない子はたいてい否定されてしまいます。しかし成績表に数値として表されるものは、ただ勉強という一事だけに話を限ったとしても、その人の持つ能力のほんの小さな一断面を切り取っているに過ぎません。勉強とは学校のテストや受験がイメージさせるようなものだけでなく、もっといろいろな可能性を持っているものです。まして人生全体を考えるなら、学校の成績などというものは見通しがたいほど広大な人の持つ可能性の中の微々たる部分を表しているに過ぎません。
こうしたことを踏まえた上で、私たちは子どもたちの勉強について考えていきたいものです。いやそうは言っても、子どもは実際に学校の成績で評価されてしまうし、大人だってそれは同じことだから‥と思う人は多いでしょう。でもそういう人は、現実をあまりにも固定したものとして考えすぎていると私は思います。考えすぎというよりも考えが足りなさすぎます。単純な色の色眼鏡をかけた状態でしか現実が見えていない状態です。色眼鏡を通して見えるもの以外は存在しない、夢物語だと決めつけて、そのためにかえって実際に他の可能性を自ら排除しているのだとさえ言いたくなります。私たち大人は、広い視野を持つことが大切と子どもには言いながら、自分自身の視野の狭さには気づかないということにはならないように十分気をつけたいものです。少なくとも子どもたちの未来は子どもたち自身のものであり、大人が線路を敷くようなことはできません。たとえ親であっても。
さて私はと言えば、年頭に当たり、これまでの人生で積み残してきた多くのものについて考えているところです。この先の人生でできることならそれを少しずつでも償っていきたいと考えています。まったくもって人生とは分からないものです。この歳になってこのようなことを考えるようになるとは、若い頃は想像もしませんでした。これから先に何が待ち受けているのか、若かった頃同様相変わらず前途は分かりませんが、今は静かな期待感があります。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)