教室長のきまぐれ日記ー星を求めるー
校舎内に1つの標語を貼り出してみました。今までそういうことはしたことがなかったのですが。何やら気恥ずかしいし、そういうのは押しつけがましいことのような気もしていました。
哲学者のカントが「啓蒙とは何か」という著作の中で引いている言葉「敢えて賢こかれ!」(古代ローマの詩人ホラティウスのもの)と、これにつけたカント自身の言葉「自分自身の知性を使用する勇気をもて!」がそれです。ホラティウスの原文では、「敢えて賢こかれ、やってみよ。正しく生活すべき時期を虚しく延引するのは、河が流れやむのを待つ田舎びとのようなものだ。だが河は依然として流れ、とこしえに転旋して止むことがない。」とあります。(以上カント、篠田英雄訳『啓蒙とは何か』岩波文庫から。ただし一部訳を変えています。)
すべての人に知性は自然に備わっている。問題は自分の知性を使う勇気をもつかどうかだ。およそこういう意味にカントは考えているのでしょう。自分は生まれながらにしてすでに賢いのだという自覚をもって、そういう自分を裏切ることのないように生活することが大切である、と。塾に通ってきてくれる子どもたちに目を留めてもらいたいと思いましたが、それとともに私自身への戒めのためでもあります。水は低きに流れる、人の心も放っておくと堕落してしまう、常に油断するな!というわけです。
私などは弱い人間です。塾の先生というのは学校の先生同様、まだ日の目を見ないでいる途方もなく大きな可能性を内側に秘めた子どもという存在と日々向き合う仕事です。しかし気をつけていてもつい、大人としての自分の都合を子どもに押しつけてしまったり、また教育の末端を担いつつ同時にまた営利目的の事業を営む者でもあるという、この仕事特有の二重性格が、子どもたちやその親御さんたちとの関係に影を落とすようなことになってしまったり、といったことがあります。私も生きていかなければならない生身の人間である以上、それは簡単には解決しようのないことで、憂鬱なことです。そういう時、先人が残してくれた言葉に救われることがありますし、励まされることがあります。
子どもたちはどうでしょうか? 子どもたちはたいてい、勉強しなければならない理由をちゃんとは知らされないまま、勉強するのが当たり前、学校のテストでひどい点数を取らないのが当たり前、という強いプレッシャーにさらされ続けます。大人の私たちは、勉強する本当の意味を、かつて子どもたちにちゃんと語って聞かせたことがあったでしょうか? 胸に手を当てて考えるなら、たいていの人はおそらくノーと答える他ないのではないでしょうか。勉強する意味というのは、将来よい学校に入れるためだとか、よい仕事に就けるためだとかいったレベルではまったく済まないことだからです。そういうレベルの話に心から納得する子どもがどこかにいるでしょうか?
つまりたいていの子どもたちは、とてもとても骨の折れることなのに、なぜそれをやらなければならないのか、本当のところはよく分からないでいる勉強というものを、なぜだか知らないがやれ!やれ!と周りじゅうから言われ続ける環境でやらなければならないという、非常にねじれた、まともに考えるなら到底納得できないであろうひどい状況に置かれているのです。
勉強するとは知性を磨くことです。カントの言い方では、知性を磨く、つまり「自分自身の知性を使用する」必要があるのは、それが人間に秘められた可能性を開花させることと等しいからです。そして人間にそうした可能性が秘められているのは、人類がこの地上にやがて善をもたらすためだという信念が、カントにはあるようです。それはあくまでも信念であって実証済みの真理ではないという点が、私には重要なことであるように思えます。そうとでも信じなければすべては意味のないことになってしまうということです。たとえよい学校に入れたとしても、たとえよい仕事に就けたとしても、たとえ大きな社会的、経済的成功に恵まれたとしても、それが善につながっていかないとしたら、そんなことに何の意味があるだろうか、そこにどんな幸福があるだろうか、という問題提起だと言ってもよいでしょう。
現代はしかし、こういうことを真顔で語るのは非常に骨の折れる時代です。私も含めて大人はこういうことをちゃんと語れなくなっているし、そこを子どもたちに見透かされてしまっているからこそ、子どもたちは日々の勉強にモチベーションを持ちにくくなっているのだろうと思います。自分のためだけにする勉強は本来とてもつまらないものです。勉強しろしろ!とただ言うしか能のない大人たちをどうして信頼できるでしょうか。
まさに私自身もそうした大人の1人なので、自分に活を入れる意図もあって、先の標語を貼り出してみた次第です。実はもう1つ、カントの言葉に並べてベートーヴェンの言葉も貼り出しています。「はした金など求めず、星を求める生活をしなさい」。2人の生きた時代は重なっています。しかもこの言葉はカントの言葉と響き合うもののように私には思えます。「星を求める」とはいかにも作曲家らしい、ロマンチックな表現ですが、いい歳をして私は胸が高まるのを感じます。子どもたちにはバカにされるかもしれません。でも、それもまたよしです。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)