記憶の力
早いものでもう12月です。時間というのはロケットエンジンが付いているのかとさえ思えます。あるいはロケットと言うよりも、タイムマシーンと言ったほうがよいのかもしれません。歳のせいかどうか分かりませんが、私には、つい昨日のことが何年も前のことのように思えたり、そうかと思えば、1年前や数年前のことがつい昨日のことのように思えたりすることがあります。以前何かのテレビ番組の中で、時間と空間は同じものの違った側面であるという、アインシュタインの考え方を紹介していました。難しいですが、簡単に言ってしまえば、さしずめ時間には、ドラえもんの「どこでもドア」のようなところもある、ということになるのでしょうか。過去の記憶、それはその時いた場所の記憶もいっしょに含んでいるものです。私たちは、ひょっとしたら、知らず知らずのうちに、時間と空間の中をあっちへ行ったりこっちに来たり、といったことを繰り返しているのかもしれません。記憶とは不思議なものです。
ぼんやりとこんなことを考えていると、塾人の私は毎年毎年同じことを繰り返しているようであり、決まった時期に決まった場所に繰り返し舞い戻っているようにも思えてきます。春は子どもたちが一斉に新学年を迎える時期で、塾にとっても新しい1年のスタートに当たります。その後ほどなくして中間テスト、そして期末テストがあり、塾にとっては一大イベントの夏期講習会がある夏を迎えます。2学期に入るとまた中間、期末テストがあり、その対策をするのと併行して、毎年11月には中学3年生向けの特訓授業が始まります。やがてバタバタと年末を迎え、年が明けるとすぐに本格的な受験シーズンが始まります(1月だけでも、私立高校推薦入試、大学入試センター試験、富山高専推薦入試、附属中学校入試等々と続きます)、3月にそれが一段落すると、すぐまた新しい1年が始まります。
もちろん同じことを繰り返すと言っても、来る子どもたちは毎年違っている以上、完全に同じことの繰り返しをするわけではありません。それに、いろいろなことのやり方は年々少しずつ変わってきてもいます(よりよいものになってきているかどうかは、分かりませんが・・)。だから、本当は同じ場所に舞い戻っていると言うよりも、その先のどこか違った場所へ歩みを進めていると言ったほうがよいのかもしれません。
来る子どもたちが違っていると言いましたが、総じてどこが違うのかということになると、よく分かりません。大人はよく、今の子どもたちを、自分が子どもだった頃と比べてみたりしますが、そんなふうに比べてみることにどれほどの意味があるのか、それも正直よく分かりません。記憶とはどだいあやふやなものだと思いますし、もう過ぎたのをいいことに、あるいは知らず知らずのうちにかもしれませんが、今の自分に都合がいいように事実をねじ曲げることはいくらでもあり得ます。
大人の記憶はあやふやでも、現に子どもたちは毎日いろいろなことを相手に悪戦苦闘しています。それは否定しようのない事実です。そしてその苦闘ぶりはまさに百人百様です。いろいろなことに意欲的に取り組む秀才タイプもいれば、いつも気分次第の出たとこ勝負、といったマイペースの子もいれば、一見闘う意欲のなさそうな子もいます(そう見えているだけ、ということもあり得ます。その証拠に、子どもはある日突然「化ける」、ということが割とよくあります。その化ける下準備はとても長くかかるのが普通で、しかもまったく目立たない所で進んでいるものです。周りの誰1人として、いや本人でさえ、それに気づきません)。こういったことはすべて、昔も今も変わりません。強いて言えば、今の子どもたちのほうが多少我慢強さに欠けるとか、打たれ弱いとかいったところがあるのかもしれませんが、これは今の大人もそうでしょう。
塾にやって来るいろいろな子どもたちを見ていて、毎年、中学3年生を見る、高校3年生を見る、あるいは中学校に進む前の小学6年生を見る、といったことを繰り返していますが、どの子どもに対しても、昨年と同じやり方で行けると思えることがまずないのも事実です。学業成績を上げるためには子どもの性格や癖に触れないわけにいきません。その性格や癖というのはその子その子でまったく違っていて、似た者同士とよく言ったりしますが、誰かと誰かの性格が似ていると思うことはまずありません。私も今やそれなりに大勢の子どもたちを見てきた経験があると思っていますが、これまで同じ例はおろか、よく似た例すらなかったように思います。こういう意味では、毎年が自分にとっては新しいことの連続で、一瞬一瞬がこれまでの自分には馴染みのなかったことの連続で、これだけ長くこの仕事をしてきた今となっても、正直慣れるということがありません。これは人間というものが本来持っている底知れなさや多様さのためなのか、それとも、あらゆるものがあっという間に更新される宿命を持つ現代という時代に特有のことなのか、分かりません。それこそ、広大無辺の時間と空間の中をあっちへ行ったりこっちに来たりを延々続けているような気持ちになります。
子どもの成績を上げるこれといった確かな方法はあるのでしょうか。成績に関係しているだろうと思える要因はいろいろです。それらの要因のつながり方もいろいろで、その子その子で実に多様です。そういうことは、子どもをよく観察しなければ見えてきませんし、私は仕事をする上で、子どもをよく観察するというこのことを、一番心がけているつもりです(少なくとも目標ではあります)。授業で教えたり、テキストを使って演習に取り組んでもらったりするのは、実は1人1人の子どもを観察するためにやっていると言っても過言ではありません。そこからいろいろなことが見えてきて、その都度適切だろうと思えることを試みていくわけですが、それが必ずしも功を奏するわけでないのは、たいへん恥ずかしながら、皆さんもよくご存じのことです(申し訳ありません・・)。
閑話休題。ところで記憶ということで言えば、物凄い例があります。フランスの小説家マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』という、全部で数千ページもある超弩級の長編小説のことです。私は学生時代に読み始めて、未だに読み終えていません(翻訳は何種類かあり、いずれも文庫本で出ています)。それは、記憶をめぐる空前絶後の記録です。19世紀末のヨーロッパの上流社会という、私たちにあまり馴染みのない背景を持つ小説ですが、時間と空間を縦横無尽に行き来する筆致は目がくらむほどです。
ふとした出来事がきっかけで、過去の記憶が思いがけなくよみがえって来、それを探るうちにまた別の記憶がよみがえる、といったことは(芋づる式です)、大小説家でなくとも誰にでもあることです。私の場合、あることがきっかけで、過去の苦い記憶がよみがえってくることが多いようです。塾で子どもたちを教えていて上手く行かないとき、やはり上手く行かず迷惑をかけてしまった子どもたちとのことが、よみがえってきたりします。決して同じ例というのはないのですが、過去の失敗のリベンジというか、今目の前にいるこの子には、あのときの自分には果たせなかった責任をなんとか果たしてやりたい、という気持になります。言ってみれば記憶が、自分をこの仕事に引き留めている、と言ってもいいように思います。
仕事だけではありません。過去の記憶があるからこそ、自分はこの人生に引き留められているとさえ、言えるように思います。その記憶というのが、どういうわけかすべて苦い記憶なのです。かつて果たせなかった目標、途中で投げ出してしまったあれやこれ、成就することのなかった恋愛などが、自分をこの人生に引き留めていて、いつでも課題を突きつけてきます。これまでしてきた失敗の数々が今のこの自分を支えてくれている。人生とはなんと不可思議なものでしょうか。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)