古さと新しさ
新しい年です。今年はいったいどんな新しいことがあるのでしょう。期待と不安の入り交じった年始です。
このところ思うのは、新しさとは何かということ。最近はよくクラシック音楽を聴いています。ひょっとして自分の人生始まって以来かと思うほど熱心に。聴くのは主に、モーツァルト、ベートーヴェン、それにシューマンといったところ。若かった頃はクラシック音楽などあまり本気で聴きませんでした。特に今名前を挙げた人たちのものは、古くさいという先入観を強く持っていて、避けることが多かったように思います。
ところで、子どもの頃は欲しいレコードがあっても(私が子どもの頃はレコードです。CDはまだありませんでした)、何ヶ月かお小遣いを貯めて、買う前から思い入れのたっぷり詰まったその1枚を、思いっきり気合いを込めて買ったものです。レコードを収めた紙のジャケットも大きなもので見栄えがし、レコードを手に入れたときの喜び、ありがたさはひとしおでした(ちなみに高校生の頃は、洋楽を好んで聴いていました)。
今はまったく違います。大人買いというのか、欲しいものがあればあまり躊躇せず片っ端からアマゾンで買っています。CDの値段もかつてとは比べものにならないくらい安くなっていますし、1枚買うときに気合いを込めるなどということも今はほとんどなくなりました。子どもだった頃を思うと隔世の感があります。今の子どもはどうなのでしょう。1枚のCDを買うときに思いの丈をたっぷり注いで気合いを込めて買うなどということが、今でもあるのでしょうか。そもそも今の子どもは、CDという形ではもう音楽を楽しまないのかもしれませんが・・。
そんなふうに次から次と気になるCDを手に入れていると、同じ作曲家の同じ作品を、最新の演奏、録音で聴いたかと思うと、あまり時を置かずに、今から半世紀以上も前の演奏、録音でも聴く、ということがあります。そんな昔と今とでは、録音技術の違いは歴然としています。でも古いものを新しく蘇らせる技術も今はめざましく進歩しており、自分が生まれるずっと前の演奏が、意外なくらい新鮮で生々しく感じられることも確かです。そうやって新しく蘇った演奏を聴いていると、半世紀以上も前の昔の演奏の独特の熱気、強い意気込みを感じます。それは今現在の演奏、録音にはまず感じることのないものだと言ってよいように思います。クラシック音楽だけではありません。ポピュラー音楽でも、そういう熱気や意気込みを感じることは今はまずありませんし、音楽だけでなく今はありとあらゆる場面で、熱気や意気込みといったものを感じることはなくなっているように思います。
こういうことは社会が大きく変化したからだろうと、私は思っています。自分が子どもの頃に経験した、1枚のレコードを買うのに何ヶ月も我慢して気合いを込めて買った、といったことと、半世紀以上前の録音から今はまずどこにも感じることのない独特の熱気、意気込みを感じることとは、何か関係があるのだろうという気がします。
こういったことを正面切って考えた思想家が、かつてドイツにいました。ヴァルター・ベンヤミンという人は、こういったことを、「アウラの凋落」という言葉で理解しようとしました。アウラというのは、物事が持つただ1回限りという性質がその物事にまとわせる目に見えないヴェールのようなもの、と言えるでしょう。その目に見えないヴェールをまとった物事は、後光を発しているかのようにありがたく感じられます。
自分は子どもの頃、なけなしのお小遣いしか持たなかった自分にとっては高嶺の花に近いものであった1枚のレコードを苦労して手に入れるという行為を通して、アウラのなにがしかを経験したのかもしれないと思っています。そして今、半世紀以上前の演奏の記録から感じられるものも、そうしたアウラのなにがしかではないだろうかと思っているところです。
もっとも、ベンヤミンが考えていたのは、レコードがその1例であるような複製技術の大規模な進歩がアウラを凋落させるということだったはずなので、複製技術そのものであるレコードやCDにアウラを感じるというのは、ベンヤミンにも予想できなかった事態かもしれません。いずれにせよ、こういう問題は、経済学に出てくる物神崇拝(私たちが何々フェチと言うときに何気なく使っているあのフェティシズム)の問題とも関わりがあるのでしょう。とても難しい問題だと思います。これ以上ここでは触れないことにしますが、私がここでこういう話をしたのは、アウラの凋落ということと、今の子どもたちに広く見られると思われる、勉強に向かおうとするモチベーションの低さとか、そもそも生きていこうとする前向きな気持ちが低下しているのではないかと思われることとが、どこかでつながっていそうに思うからです。
言うまでもないかもしれませんが、子どもたちは放っておけば勉強する気になるというものではありません。少なくとも現代では。勉強は昔も今もまったく変わらず、頭の労苦、労働であり、しかも相当な重労働です。昔の子どもはやる気があったが今の子どもはやる気がないといった乱暴な分け方は欠陥がありすぎますが、ここでは仮に事態を思いきりシンプルにして眺めてみるために、あえて乱暴なことをしてみようと思います。勉強の性格は何も変わっていない以上、昔と今とで変わったのは子どもたちのほうであり、それはつまり、社会のあり方が大きく変わったということ、大人の生活スタイルが大きく変わったということです。現代は大量生産、大量消費の時代です(大量生産というのは古い、今は多品種少量生産の時代だという見方もあり、なるほどと思います)。たいていの人が、欲しいものを直ちに手に入れることができます。今の子どもはたいへん高価なスマホやゲーム機器を当たり前のように手にしますが、そういうことは数十年前まではまったく想像することもできませんでした。
こういうことが勉強とどう関係するのかと言えば、物や便利さがあまねく行き渡っているような環境では、忍耐や集中を必要とする場面が極度に少なくなっていて、そういう力が子どもたちの中で育つ機会がないということです。大人はよく、子どもに将来の具体的な目標が欠けていることをモチベーションの低さの原因だと思いがちですが、将来の具体的な目標がなかったのは私たちの子ども時代もまったく同様でした。それでも今の大人のほうが今の子どもよりは勉強できたのは、辛いことに耐える忍耐力や目の前のことに熱心に向き合う姿勢が育つ機会が、日々の生活の中にまだ割とたくさんあったからだと思います。今の子どもたちにはその機会が与えられていない。今の子どもには、アウラを感じる機会がないのです。これは幸福なことなのか、それとも不幸なことなのか。
ベンヤミンに話を戻すと、アウラの凋落を、もはや後戻りのあり得ないこととして、彼は前向きに理解しようとしていました。ここでの話に引きつけて言うなら、今の子どもに忍耐力や集中力を期待しても無駄ということです。将来の目標を持てたらやる気が出るんじゃないかと思うのは幻想だということです。忍耐力がない、集中力がない、モチベーションが低いというないない尽くしの現状をまずは冷静に受け止めて、そこから再出発するしかないということです。上手くいく保証は何もありません。おそらく現代の子どもたちが置かれている状況は、過去にあまり例のなかったものではないかと思います。
音楽の話に戻りますが、クラシック音楽でも、最新の演奏、録音で聴くと、昔のに比べて、一様にクールというか、淡々としています。熱気とか意気込みよりも、目の前のことにとりあえず淡々と取り組んでみるといった感じの、我のあまり感じられない姿勢、得体の知れないものを前にして、それをどうにか征服してやろうという意気込みは最初から持っていないかのような、静かな静かな姿勢があるように感じます。これが、現代人がとり得る最大限の誠実な姿勢なのだろうという予感がします。私は抵抗を感じつつも、そういう姿勢に共感します。ここで無理をしても嘘になります。意志の強さとか、人間らしさといったものは、今の時代のものではありません。そういうものが再び蘇ってくるとすれば、それは一見無気力にしか見えない今の子どもたちの暗中模索の中からでしかないのだろうと思います。
(アルファ進学スクール水橋校 涌井 秀人)